牛歩ながら一歩ずつ
まったくわからなかった状態から
今はすこしだけ
以前よりも「分かる」
ようになってきているという感じである。
うまくならないよりは
なったほうがいいのはもちろんだが、
打楽器の良さはなんといってもそのシンプルで、
プリミティブな行為そのものにあると思う。
ものを叩けば
音楽が鳴りだす
音楽が鳴れば
世界がつながる
言語を超えた
もしくは
言語の手前の
コミュニケーション
そういったものができるような気分になる。
そしてその、生身の身体一つから
繰り出される音には
その人の心の持ちよう
性格、身体の使い方など
細かい差異をたくさん感じることができる。
とくに自分が叩いているとき
一音ごとの微妙な誤差
そういったものに集中している瞬間は
日々を覆い尽くす邪念の数々を
80%(当社比)以上カットしてくれる。
(それでもひどい…というか、強い類の邪念はまだ心の隙間に割りこんでくることもある)
つまりはマインドフルネスと一緒で
近頃の状態の僕はとくに
今まで以上に必要性を感じている
さて、
リズムを一定の速度で叩き続けるというのは
本当に難しい
疲れても、疲れていなくても
悩んでいても、悩んでいなくても
お腹が空いていても、満腹でも
どんな時でも
一定である
ことがある程度で求められる。
そんな精度を持続できるだけで
私の先生(いや、師匠!)は本当にすごいと感心する。
(もちろん、鳴らす音の質も圧倒的に違う)
リズムは僕にとっては不思議で
メトロノームのテンポに合わせて
叩き続けていると
前述したその身体のブレのせいなのか
同じように叩いているつもりでも
「あれ?
さっきより
ちょっとテンポが早くなっていないか?」
「おや?
テンポがちょっと遅く感じるぞ」
などとありもしないはずの
主観的な感覚に気が付く
機会のメトロノームで鳴らす
BPMがブレることなど
およそないはずなのに。
この感覚をなんと呼べるのか。
これはまるで、
世界のよう。
わが身になにか起こると
突然世界が
鈍色に見えたり
彩り豊かに見えたり
絶望的な世界に感じたり
希望が溢れる世界に感じたり
(Mellow SymphonyのLife isはそういう内容がテーマの曲)
そんなことが間々ある。
世界はなにも君のために
変わってはおらず
単に君が
世界の捉え方を
今変えたのだ
そう言い聞かせたりして
なるべく真っ直ぐ、フラットに
世界と向き合おうと
思い直したりするのだけど
これもこれでリズムキープと同様
なかなかコントロールが難しい。
世界もリズムも
体感が多少変化することは
自分自身に
少しだけ許してあげて
その浮き沈みから
少ししたら戻ってこれるように
世界もリズム(メトロノーム)も
突然そんなに大きく変わることはないのだと
改めて
自分に気が付かせてあげたい
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