かつてこんなキャッチコピーと共にイジメ撲滅運動的なポスターが巷に張り出されていた気がする。
こんなものでホントに撲滅できると思っていたのか定かではないが、とにかく時のいじめっ子はカッコよくなりたくて誰かをイジメていたわけではないし、カッコ悪いことが「人からの評価」であり、その人からの評価を「さげるようなことをしてはならない」という、評価そのものを基準とするようなこと自体が、今の多くの日本人のマインドセットに繋がっているのではないかとも思う。
Cyber Bullyという言葉を思い出すこの頃。
誰がなんのために話題を持ち出しているのか、なんとも全容がつかめないながらも、なにかが巻き起こってはその槍玉に挙げられる人が激しく糾弾されることがしばしば起きている。
特にこの頃の世界的なスポーツイベントのホスト開催に関連して、民意をきかずに頭から突っ込んでいくような決定をする組織の姿勢は負のエネルギーを増幅させていやしないだろうか。
そこへツイッターというそのリアルの存在すらも不明な個々のか細いつぶやきをハードパンチに変えてしまう、掃き溜めの正義みたいなものが育ってきてしまい、特に日本国内では、その匿名性などを最大限に活かす人々によって猛威をふるっている。
か細い声の人のなかには、かつてのイジメっ子もイジメられっ子もいるだろう。
腕力では負けても、知力で勝つ人もいるだろう。
普段から人のことボロクソに言う割には、相手に言われた一言を何度も思い返すような、繊細な人もいるだろう。
あの時はイジメていたけど、今では人を守りたいと思うようになった
なんて人もいるだろう。
そんな人たちのかつての一瞬が、いたずらに表出する。時にそれは意図的だったり、時にそれは偶発的であるかもしれない。
そしてそれは、拡がりをみせることがある。
ある瞬間の共感をもって。
イジメや、人種差別を肯定する人も中にはいるのだろうが、僕はそれは恐ろしいと思う。
あるとないを選べるとしたらない方を選ぶ。
でもそれと1990年代の日本の風潮や、当時の人種や人権、環境問題に対する情報や知識の乏しさ、それに対する意識が民度にまで染み込んでいなかったことは、そこで成功を得ていったアーティストたちの責任だろうか。
その作品やかつてのコメントを含めて評価し、結果的に彼らを現在の立ち位置に押し上げていったのは我々日本人ではないのか。
時の世界的スポーツ大会における開催国の組織委員会代表は、セクハラを過去に起こしているが、誰かに守られて、引き続き国を代表し、国民の選択など気にも止めず突き進む。
今日の出来事のなかにメッセージがチラつく。
それはもしかすると、こんなことかもしれない。
さようなら、日本のかつてのイジメっ子たち。
もう君はどんなに生まれ変わり、どんなに反省していたとしても、またどんなに今イジメられたとしても、あなたはもうこの国でなにかの組織や誰かの代表をすることは許されない。
(ただし体制側につくことができれば、話が変わる可能性もある)
果たしてこれは、今回の件が「国際的なイベント」であり、その行為が「国を代表して世界に発信させられる」から、イベントの主旨に「平和や多様性を謳っているもの」と反するから、今の状況がうまれているのだろうか?
その3つが他に揃っているものは同様に、品行方正な人々しか集まっていないのだろうか?
それとも!
世界中でまだまだ苦しむ人や街がある世界的な疫病による直接的もしくは間接的な影響によって引き起こされている、負の感情のようなものが存在しているのだろうか。